『信仰とは何か』
私はクリスチャンである。死にたいと思ったこともある。しかし、イエス・キリストに助けられて「今を生きている」。統合失調症と仲良くなるためにキリスト教の教えである「忍耐」が必要だと求道生活を通して身をもって知ることができた。思考がまとまらない恐怖、不眠症への恐怖は今も続いている。毎日、朝と夜に祈りをささげ、眠剤を飲んだ後には母に図書館で借りてきた本を朗読して眠りにつくようにしている。これが私の拙い信仰生活の一部である。
聖書は通読している。現在は『列王記下』の最初の箇所まで読み通すことができた。旧約聖書は新約聖書よりも難しいと私は感じているが、主の導きによって最後まで読み通していきたい。
広い意味で本を読むことも「信仰」の一部なのではないだろうか。「神は細部に宿る」とよく言われるものだが、小説について考えている保坂和志氏や小説の広い可能性について追求している故小島信夫氏。そしてマジック・リアリズムの技法を小説執筆に取り入れているラテンアメリカ文学の故ガルシア=マルケス氏の本を集中して読んだり、眼を通している。本の世界は私たちを「想像の翼」に乗せてくれる。これらは主に対して小さな信仰なのかもしれない。しかし、「天に徳を積む」という聖書のみことばからは善きことなのではないだろうか。
日曜日になると、多くの信徒たちが教会に聖霊の働きによって集ってくる。私は昔から仲間の輪のなかに入ることが苦手な人間なので、食事の用意などの「奉仕」が実はあまり好きではなかった。
しかし、主日礼拝(日曜日に礼拝すること)の説教を集中して聴くようになり、食事の交わりにも積極的に参加するようになると「奉仕」にも慣れてきた。「信仰とは何か」これは一生涯のテーマになりそうである。
小説『劇団のひととき』
私は劇団のシナリオライターだった。ジャズを聴きながら執筆に明け暮れている。ジャズを聴きながら書くと即興性が加わることが多いからだ。劇団の名前は「トンプク座」だった。今日の講演はG・ガルシア=マルケスが著した「百年の孤独」を原案にした「十億光年の孤独」という演題だった。稽古は順調に進んでいた。演出家の伴栄作はかなり短気な性格で怒ると灰皿を投げるときもあった。台詞を怒鳴り散らし、稽古場は和やかな雰囲気と緊迫した雰囲気がちゃんぽんになっていた。
あと3週間くらいで「十億光年の孤独」が演じられるのだが、脚本がほとんどできていないじょうたいなのでこまってしまっている。
神様との雑記
私は遠藤周作の『沈黙』のセバスチャン・ロドリゴの書簡と新約聖書のペテロの手紙を読むことにした。母が無神論者で改宗してもらいたいという気持ちが強いためだ。私は統合失調症を患っている。より頼むのは神の御言葉しかない。宣教師には『信徒のための改革派組織神学』という難しい本をわたされた。正直いってむずかしくてたまらないがそこには「救い」を感じる。教会の信徒さんには「愛をもって行動すれば母はイエス・キリストの恵みを得ることができます」と言ってくださる人もいました。
「神はいるのか」についてまだ疑問を持ちながら信仰生活をおくっている。このブログは私の信仰問答に近い。
夜になると母のために前述の『沈黙』を朗読する。この拙い手記が神の国に入るてがかりになればと思っている。
最近よく聴く音楽にサラオレインの「セレステ」という透明感いっぱいの歌手のアルバムを聴いている。そこには確実に「癒し」がある。このブログが若い人の眼にとまり枝となり幹になりますように神にいのっています。。